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ナラトゥー (パガン王朝) : ミニ英和和英辞書
ナラトゥー (パガン王朝)[あさ, ちょう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [おう]
  1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) 
王朝 : [おうちょう]
 【名詞】 1. dynasty 
: [あさ, ちょう]
 (n-adv,n-t) morning

ナラトゥー (パガン王朝) : ウィキペディア日本語版
ナラトゥー (パガン王朝)[あさ, ちょう]
ナラトゥー(、? - 1170年、在位1167年 - 1170年)は、パガン王朝の第5代の国王。第4代国王アラウンシードゥーの子。史料によってはエインドーシンカラ・ジャ・ミン(「異国人によって殺害された王」の意)とも書かれる〔大野『謎の仏教王国パガン』、177頁〕。
ナラトゥーは父のアラウンシードゥーと兄のミンチンソウを殺害して即位した〔Coedès 1968: 167〕。ナラトゥーの事跡にはパガン最大の寺院であるダマヤンジー寺院の建立が挙げられるが〔Hall 1960: 22〕、彼の行動は王朝の権威を大きく低下させ、評価は非常に低いものとなっている〔Htin Aung 1967: 50–51〕。
== 生涯 ==
ナラトゥーはパガン王アラウンシードゥーと王妃ヤダナボンの次男として生まれる。〔Yazawin Thit Vol. 1 2012: 121, footnote 2〕彼の母はチャンシッターの宮廷で大臣を務めたDhamma Kyinの娘にあたる〔Hmannan Vol. 1 2003: 304〕。ビルマの年代記に記されている彼の生年と統治期間は一致しておらず、主要な4つの年代記に記されている年代を以下の表に示す〔Maha Yazawin Vol. 1 2006: 348〕。

アラウンシードゥーの在位中、ナラトゥーの兄のミンチンソウが後継者に指名されていたが〔Hmannan Vol. 1 2003: 303〕、ミンチンソウはアラウンシードゥーに疎まれてマンダレー東部のツントーンプテッに派遣される〔G.E.ハーヴェイ『ビルマ史』、75頁〕。ナラトゥーは王国の日常的な事務を処理してアラウンシードゥーに好印象を与え、間もなくナラトゥーは宮廷の中で事実上の後継者となった〔。
1167年にアラウンシードゥーは重病に罹り、ナラトゥーはアラウンシードゥーをシュウェグージー寺院に移すように命令した。寺に運ばれた父が意識を取り戻した事を知ると、進退窮まった彼は寺に赴き、自らの手で父を窒息死させた〔G.E.ハーヴェイ『ビルマ史』、76頁〕。ナラトゥーが政変を起こした直後にミンチンソウが軍を率いてパガンに進攻し、ナラトゥーは大僧正のパンタグと協議してミンチンソウを王位に就けた。しかし、その夜にナラトゥーはミンチンソウを毒殺して自ら王位に就き、彼の背信行為に憤慨したパンタグはセイロン島に出奔した〔G.E.ハーヴェイ『ビルマ史』、77頁〕。
1170年にナラトゥーは殺害されて生涯を終えるが、彼の殺害に直接関与した国家については諸説ある。
ビルマ史家のハーヴェイは、パガン王家に嫁いでいた娘を殺害されたパティカヤ〔ビルマ西部、ベンガル地方付近に存在した地方。(G.E.ハーヴェイ『ビルマ史』、484-485頁)〕の王の報復とする説をとっている〔G.E.ハーヴェイ『ビルマ史』、78頁〕。パティカヤ王は8人の刺客を送り込み、彼らはバラモンに扮してナラトゥーを刺殺したと伝えられている〔〔。
ビルマ史家のタントン、ゴードン・ルースらは年代記『チューラヴァムサ(小史)』の記述から、セイロン島のシンハラ王朝の攻撃によって戦死したと推測し、交易利権を巡っての対立が戦争の背景に存在したと推測した〔伊東利勝「イラワジ川の世界」『東南アジア史 2 島嶼部』収録(石井米雄、桜井由躬雄編, 新版世界各国史, 山川出版社, 1999年12月)、121頁 大野『謎の仏教王国パガン』、177頁〕。1165年にナラトゥーがシンハラ王朝の襲撃によって落命したルースの見解に対して、ビルマ史家のHtin Aungはルースの意見を単なる推測に過ぎないと強く否定している〔Htin Aung 1970: 36–39〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ナラトゥー (パガン王朝)」の詳細全文を読む




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